・決定
”現実” は頭で思い描いたようにしかおこりえない。
それほどまでに自分で下した決定というものは、大きな意味を持つ。
・二元論
アンパンマン、水戸黄門、小さな頃から ”正しいこと” と ”間違ったこと” の意識を、
無意識下に植え付けられた。
自分では氣がつかないうちに、”正しいこと” 以外は ”間違ったこと” の認識を持つようになった。
・マナー意識
幼少から中学にかけ、
一人が遅れたらクラス全体もしくは学年全体の前で遅れた人間が罰せられるという事があった。
その時に他と違ったことをすることが、他者に大きな迷惑を掛けてしまうという意識を持った。
集団生活でその意識を持ち
”正しいこと” 以外が ”間違ったこと” と誤認しがちになった。
また ”正しいこと’ 以外をしている人を正すため、
周りを監視し ”正しいこと” 以外をしている人を咎めるようになることを
している人にも氣がつくようになった。
これもマナーだと認識するようになった。
・正しいこと以外
”正しいこと” 以外が ”間違ったこと” と認識してしまうと、
自分が正しいことをしようと思う方向に働くようになる。
同時に、自分の自然体が ”間違ったこと” とご認識してしまうようになる。
人の作り出した ”正しいこと” はあくまで人の価値観が作り出したことであり、
TPOにあった、誰かによって決められたものである。
この理由付けは、人を守るためであったりすることも行き過ぎれば偏ってしまう。
利益を得やすくするために、人をコントロールする目的のものもあったとしても、
正しいことをするように教育されている者たちには、規則があることによって、
規則外が間違ったように認識してしまう。
世の中に60億人いるとすれば、60億人の価値観がある。
正しいとされることが、60億分の1だとして、自分の価値観が残りの価値観に入ってしまった場合、
自分の価値観が ”間違ったこと” のように認識してしまう。
然しながら、自分が間違った存在になりたくないがために、
自分の本来感じる部分を、正論によって作りあげられたもので封じ込め、
他者の掲げる ”正しいこと” に自分を押し込もうとする。
それは自分ではない、何者かになりきろうとすることであり、
幸せの道から遠ざかることでもある。
例として、新卒の就職活動。
決まった髪型、格好をして、
”正しいこと” とされる受け答えが書かれた本を読み、
”正しいこと” とされるマナーを、社会人になるためだと己に叩き込む。
あるがままの自分が道徳的に間違ってもおらず、まっとうでないと思うわけでもなかったとしても、
会社にはいる前から、あるがままの自分を封印し、何者かになるように努力する。
自分が何者かになる ”正しい” 理由を自らに押し付けてしまう。
社会に入ったら更にそれはエスカレートしていく。
自分で自分を騙して封じ込めてしまっていることすら当たり前の ”正しいこと” とする中で、
違和感に声を上げることは、 ”間違ったこと” と認識されてしまうかもしれない。
自らを不幸にする理由の一つだと思う。
・意識して生きること
そう生きることを決定しているのは紛れもない自分である。
もともと人に迷惑をかけずまっとうなことをしようとしていたつもりが、
ありのままの自分をいつわり、自らを生きづらくした決定をしているのも自分である。
自分で意識して決定したことは、自分の想像したことと同意義になる。
そして、それが他者のためだったり、真心からしている決定であれば、
同じ様に他者のためだったり、真心から発生する、
新たな自分の決定を覆す決定を自分がすればいいだけ。
自分の決定は、自分の決定のみ覆すことが出来る。
自分の想像は自分でのみ上書きすることが出来る。
世の中のすべての事象は、
自分の意思決定により意味合いは変化する。
・まっとう
以前も書いたかもしれないが、85歳の農家のおばあちゃんに相談したことがある。
自分はまっとうに生きたい、と。
成長するたび、
過去まっとうだと思っていたことが、過ちに感じ、
過去過ちだと感じていたことが、まっとうに感じるということが幾度かあった。
だからまっとうなことが何なのかを知りたいし、
その道で生きていきたいと。
彼女は笑いながら一言こういった、
「この世の中にまっとうがわかる人間はいない。
自分が思うまっとうをやればええ。」
・完成されている
社会にある規則や、マナーを軸に自分を変えようと思うくらいなら、
バカバカしいからやめたほうが良いと感じる。
一個人はすでに完成されている。
短所と言われるところは、最大の長所になるはず。
長所であるという自分を認めてあげる決定を、自分でしてあげれば、
自分が救われる。
変わりたいと感じれば変わればいいし、変わりたくないと感じたなら変わる必要もない。
自分が傷つく決定をもともと行わなければいいだけに感じる。
そして人や世の事を考えて、まっとうだと思うことをやっていれば、根本的に間違いはないはず。
その時その時の状況によって、自分がまっとうだと感じることや、間違っていると感じることは、
人や世のことを考えてみれば、自ずとまた違った決定を行えるはず。
過去の決定は、今の自分にとって本当にまっとうなのか。
日々まっとうに生きていればいいだけだと思う。
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