- ファンク
自分はファンクを最も大切なものの一つとして捉えている。
ファンクは言い換えれば、個性であり、自由意志とも言える。
ひとつひとつの魂は目的があり、自由意志に従うことによってそれが全うされるように出来ている。
しかしながら、あまりにも巧妙な目の前の世界の仕組みや設定によって、
ほとんどの人は自由意志というものを忘れ、自分で自分に嘘をつくことにより、
役割を演じて誰かのフリをすることによって世界が回っている。
- 善と悪
善と悪という発想は、何者かが何かをコントロールしたいと思うときに初めて生まれる概念。
権力者が民を左を見ないようにして、右だけをみて生きるようにしたい場合があったとする。
大抵は、左を見ると重要なことに氣がつかれてしまうため、意識を向けさせないための仕組みでもある。
その場合の仕組は簡単だ。
1
まずは善と悪という二元論に全てを集約させる考え方をインプットする。
物心付く前から見せられているアンパンマンや、水戸黄門などはそうだし、アメリカのヒーローもの、悪役者なんかはわかりやすい。
世の中は2つで考えることは出来ないはずが、さも善でないものは悪という考えに至るようにインプットする。
2
規則を守るようにする。
小さな頃から時間に遅れた生徒がいたら、全員の前で怒られるようになっていたり、
校則を守らない、自分らしさに従った生徒は’悪’となる教育を徹底する。
そして周りが注意するようにすれば、自動的に規則以外のことをする人を排除する働きが構築される。
3
なぜその規則がそこにあるのかは決して考えさせず、目を向けさせない。
考えられると困るため、点数制にしたりして、いかに従順に規則に乗っ取れるかに注意を向けさせる。
本来規則というものは、皆のためにあるものであるが、
最近は権力者が都合よく人を動かすためのツールとしても機能してきているため、
そのことに関して触れない様になってきている所も多いように感じる。
4
目を向けさせたいこと、民に行わせたいことを善とし、
権力者にとって都合の悪い、目を向けられてほしくない事象を悪として規則を設定する。
これで人は従順な羊になる。
善と悪は、何か自分の意識を他に定着させたいと思ったときに、生まれてくる自分の思考回路でもある。
家族がいて、熊に家族が襲われるとする。
自分の意識は守るものが家族となり、攻撃対象が熊と定着する。
すると一家の主にとって、守るもの家族は善であり、熊は悪そのものになる。
しかし自然の事象で見れば、捕食者が、捕食しているという一事象に過ぎない。
何かをコントロールしたいという意識が、善と悪をその人の中に作り出す。
またそれに付随して、監視という行動もその概念から生まれてくる。
監視とは何者かにとって進んでほしくない方向に物事が進むときに、その事象を防ぐために現れる現象になる。
コントロールしたい対象に対して、監視することによって、自分にとってのエラーを起こさせない。といった対象に対しては、信頼とは真逆の発想となる。
他者の意識の介入による、他者による世界の構築という言い換えも出来る。
感情がある限り、これから逃れられることはない。
- 概念、認識、行動変化
人間は世の中全てがこの3つの工程で成長を遂げる。
概念がなければ、その人は認識することが不可能なため、
行動変化を起こすことも出来ず、概念が出来るまでは延々と同じ問題に直面し続ける。
死ぬまでそれに氣がつかない人もいて、
いかにその概念を自らで氣がつくことが出来るかが肝となる。
大抵人生において大きな引っ掛かりとなる出来事となって自分に襲いかかってくるが、
概念が作られず、認識できないままだと、更に大きな問題となって自分に襲いかかる。
それでも氣がつけない方は、半身不随になったり、直面せざるを得ない事象にまで運命が動く。
運命というとあってないような不思議な話にも聞こえてくるが、
自身で氣がつけていない事象ですでに痛い目にあっている場合、
同じレベルの事象には耐性のようなものが出来てしまっているため、
自分ではどうにもならないレベルにまで問題が膨れ上がらないと問題が起こっていることにすら氣がつけないという、ごくごく論理的に当たり前な話である。
- 自由意志
自分は、各々自由意志が発揮されれば、世の中は遥かに良くなると感じているし、
その人がもっとも幸せに包まれる瞬間が訪れると感じている。
だから俺はその人が、その人らしくなる姿を求めているし、
それが一番美しい姿だと感じている。
自然は自由意志で、そのものの姿をしているため、美しいんだろうな。
最近とある人とやり取りをすることが多かった。
自分はその人の持つ美しさを輝かせる手伝いがしたいと思い、
その人の自由意志が発揮されるように話をしていた。
直接伝えようにも表面上では意味がなく、自分自身で自由意志のコアに氣がつくには、他者が何を言っても基本的には伝わらないんじゃないかと思っている。
自分が自分で氣がつくことが出来たとき、ひととしての美しさが出てくるのをもう知っている。
そのため出来る限りこころの部分だけで物事を伝えていった。
それでも、そのひとの自由意志は、”監視される”という言葉がある場所に収まることを受け入れていた。
自分にとっては監視は他者から囲いを作る自由意志の阻害に感じるため、そのひとに自由意志が発揮されにくくなる状態をそのひとの自由意志によって選んでいるというように感じた。
概念がうまく入っていないために、そのひとにとって過去と同じ事象が起こっている可能性があるという言い方も出来るし、自ら學ぶ必要があるため、その状態に自ら進んでいるとも言えるのかもしれない。
それ以外のみえない仕組みがあることが大きいと思うけど。
とにかく自由意志が大切だし、そのひとの美しさであるので、それを尊重したいと強く感じる。
そこで自分らしさが発揮されることがあるのも、もちろん感じている。
- 自分らしさのバランス
自分は誰かのもとで働くのは自分らしくなれないため、自分が主体で動いて働いていくことを選んでいる。でも人のもとで働くことを強く望む人が沢山いることも知っている。
自由
自らに由る
覚悟
悟りを覚える
最初の一歩は恐ろしいけど、自らに責任をもって進んでいけば、
より自由意志が発揮される世界が広がるので、
幸せになれる世界が構築できると確信してる。
でもあくまでそれは俺の考えなので、自由意志がどう発揮されるのかは結局ひとによるのかもしれない。
そんなこという俺も俺で、目の前のひとに真剣になるはいいけど、俺もそれらしいことを言って、
もしかしたら自分の自由意志をないがしろにしているのかもしれないとも感じた。
だとしたら、結局俺も同じことを繰り返しているだけなので、
自分らしさがそこで発揮されているのか、もう一度自分を洞察してみたい。
もし発揮されていないなら、そのバランスは自分を自分で騙しているだけの可能性がある。
今後は俺自身の自由意志をもっと尊重する必要があるのかもしれない。
- 美しい世界
俺は美しい世界をみて、そこで住みたい。
だからこそ、なにがひとが幸せに感じるかを未だに毎日考えながら生きている。
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