- 錯覚
この世は錯覚で成り立っている
- 騙す
自分が自分に騙されている。
それはこころの問題でもそうだが、概念においても同じことが言える。
先日のポストの ”コントロールと自由意志” で書いたとおり、
(わかるかぎり最低でも)この物質世界においての成長として、3段階ある。
概念があり、認識があり、はじめて行動変化が起こせる。
人間はこの概念によって全てが成り立っている。
きれいな例ではないけど、以前書いたquoteを。
- 意識による情報網
例えば目の前におじさんがいたとして、鼻毛が出ているとする。
それ自体は事象だけど、人によってはその事象が見えない。
高校生や大学生は、目の前のおじさんの鼻毛が出ていることはすぐに氣がつく。
年齢がいっているおじいさんは、鼻毛が出ていることに氣がつかないかもしれない。
理由は、若い子は見た目をとても氣にするため。
高校生、大学生が鼻毛が出ているということになったら、結構な大問題になる。自分の中で、そこのアンテナが立っているから、
その情報網が敷かれていて、情報をキャッチ出来る。
反対に後者のおじいさんは、そんなことはどうでもいい。
どうでもいいことに関して、情報網は敷かれておらず、
情報としてキャッチすることをしようとしない。
その代わり、内面の人としての器としての大きさをキャッチするかもしれない。
前者はそういった情報網はないかもしれない。概念というものがない場合、
意識において情報として捉えることができない。
概念があってはじめて、情報として認識することが可能なため、
人間は情報として頭にいれるために足りない情報がある場合、勝手に脳が補正をかける。
その補正は案外適当なもので、物事の本質をそのまま真逆に移してしまうことも多々ある。
拾い物だけど、例えば上記の画像。
全てのボールは実は同じ色。
だけど脳は勝手に違う色として補正をかけるため、
本来色がついていないにもかかわらず、
赤色、緑色、青色といった周りの環境に合わせたような、
色眼鏡を勝手にかける。
それが今あなたが見えている世界の正体であり、
自分が自分に騙されていることの正体である。
- 本質を隠す
本の上になにかの袋が置いてある。
このなにかの袋。という概念がない場合、人は本がおいてある。としか認識することが出来ない。
人は知らないことに関しては察知することが出来ないためである。
そのため人によっては、本があったとしか認識していない可能性がある。
本という認識できるものだけの情報が入ってきているためである。
しかし、他の人によっては、本質はその袋の中身かもしれない。
本質は袋の中身でも、袋さえ認識していない人が世の中にはたくさんいるということだ。
- 本質
アメリカに住んでいたときに強盗にあったときがあった。
わたしは強盗の被害者になり、恐ろしくて2日間ほど家を出ることが出来なかった。
その後心配した友人が家に来てくれて、
”強盗は惡いことか”とわたしに問うた。
その時は強盗は惡いことだと返事をしたが、
その後彼が、
”生きる術のためにドラッグを売るか、強盗するしかわからないもののする強盗は惡いことか”
の問いに、わたしは心底食らってしまった。
なぜならその質問で、被害者であるにも関わらずすべての価値観がひっくり返ってしまったからである。
強盗は惡いことではなく、環境、教育が惡いだけだと。
この話として確かに強盗は起こっている。
ほぼほぼの人は惡いこととしてしか認識することが出来ない。
なぜなら強盗、人を殴ること、は惡という概念しかないためである。
しかしわたしはその時の強盗の目を決して忘れていない。
あの目は恐れや恐怖に近いものだった。
彼の強盗という行動に対しての、
概念である本質の部分は、恐れや恐怖。
それが物事の本質だ。
怖くて支配的、攻撃的に見えるあの人の行動は、
実は他人想いからの優しさが故で、それが物事の本質で、怖い行動にみえるだけかもしれない。
他人想いで優しくみえるあの人の行動は、
実は支配的で、攻撃性があるが故で、それが物事の本質かもしれない。
すべて今ある概念からしか、物事をはかる事ができない。
その人のそれまでの生き方がそのまま概念になり、
そのままその人の世界となるため、
本質は実はまったく見えていない真逆のことかもしれない。
- こころ
人は字を書くときに、いったんこころで書いている。
こころで書いたものを、脳が信号を送ることで、筋肉を動かす。
腕を動かし、手を動かし、筆を動かし、結果として字を書く。
人々は字を字としか認識しておらず、こころを読むことを忘れている人があまりに多い。
正直字なんてどうでもいいんだ。
上記で言えば、
強盗は字。こころは恐怖。
いけてないビジネススクールなんかで教える、
”成功法則” をなぞるスキームそのものなんかは、
字だけを教えているのと同じ。
夏目漱石が、
英語の “I love you” を
「今夜の月はきれいですね」
と訳したのはこころを、彼なりの字に表したいい例だと思う。
一緒にきれいな月をみたいと思うひとがいて、
隣にそのひとがいて、空に浮かぶ月をみると本当に美しいだろうと思う。
それをただ言葉に出したくなる。
その時の感覚が、全部入っているような ”こころ” が、
字に表れている。
だけど字だけから状況をみてしまうと、
その時の月は何月何日の話だから、満月だとか三日月だとか。
見た時間帯は暗かったとか明るかったとか、天気はどうだったのかとか。
どこでその月をみたのか、どういう季節ごとの都合で見た月なのか、
そのときに聞こえていた虫の声はどういうものだったろう。
とか、全くもって本質からかけ離れていくことばかりにフォーカスがいく。
もちろんその字が、こころを表しているし、
ひとは字と字でしか{一見}やり取りできないように思うため、
字から読み取るしかない。
字という錯覚の中から、
本質であるこころを感じて生きていきたい。
お互いがこころを感じて生きていく当たり前がそこにあればいいのになと思う。
だからもっと多くのことを感じて生きていきたいし、
自分に正直に生きていきたい。
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