2021/06/20 山籠り4日目 すもも狩り、草刈り、地域の生き方、いらだち

田舎暮らし
  • すもも刈り

地元の農家さんからすももを採りに来ないかとお電話があったので、朝イチで採りに行ってきた。
「木になっているのは、すべて持っていってもいいよ」
とのことで、持ってきた籠満杯に持って帰った。
ランドセル一杯分くらい。

そしてきゅうりもたくさん持って帰ってきた。

市場には決して出回らないような、
100%に熟れた旬のものをただで沢山いただけるのは、田舎のいいところだ。
今までの生き方的に、国内外の5つ星ホテルだったり、それレベルの場所で、
おいしい食べ物をたらふく食べてきた。

この田舎は、お金はそこまで手に入らなくとも、
それらのレストラン以上に美味しいものがただで沢山手に入る。
旬の採れたてのものは、本当においしい。

  • 草刈り

畑が草が生い茂り生え放題になっていたので、近所の違う農家さんのところへ行き、
草刈り機を借りてきた。

考え方は自然農の考え方もフォローしている。
でも有機能の考え方もフォローしている。
正直自分に都合が良ければいいのだ。
その中で、いかに他者の存在を受け入れ、
より多くの存在が幸せになれるのか。

自分は土にふれること自体が去年からなので、
まだ実験段階。
生え放題の草は、通路は刈った。
畑も痩せ地のため、実らせたい植物があるため、
その周りも刈った。
自然農的にはNGかもしれない。
それでも実験段階。

どちらかに振り切り、その他の考えを反対のものと認識し寄せ付けない。
それは二元論で終わり、自ら出口のない迷路に入り込むこと。
自由を知るために、自らに由る生き方を追求する。

  • 地域の生き方

草刈り機を借りた農家さんのところに、
近所のおじいさんがチェンソーを持って来られていた。

この草刈り機を貸してくれた農家さんは85歳のおばあちゃん。
地元の木材からヒノキの材木をものすごい量もらっていた。
それを風呂用の薪にするために、
近所のおじいさんがチェーンソーを持ってきていたという流れ。

自分もそのまま薪にする手伝いをした。
そこのおばあちゃんとおじいさんに金銭のやりとりはなく、
助けが必要なところに、助けられる人がいくという、
コミュニティのあり方をみた。

アメリカの黒人街で僕が学んだ大きなことはシェアの文化でもあった。
未だに僕は、お金はある人がない人に流せばいいものという考え方でもある。

お金は量子力学的にも、陰陽道的にも同じ ”エネルギー” であるという対談をみたことがあるが、
エネルギーであるならば、循環するほうがより大きな流れとなる。
血液、氣。 様々なエネルギーは停滞でなく、
循環することによって様々な働きを活性化させることが出来る。

 

  • いらだち

最近ここに来ていた方が、お別れ会をするというので。行ってきた。
数日以内に本腰入れての山籠りをすることを考えていたので、
人に会えるうちは会っておいてもいいか。
という、今の自分を樂しむ考え。

様々な美味しい料理もあり、15人近くで話す。
終始和やかなムードではあったが、
地元の農家さんたちに、良くも惡くも目をつけられている自分に対し、
またチクリと言葉がはいる。

地元に、10年前に自分と同じ様に頭にカミナリ(雷、神鳴り、神成り)が落ちた人がいるのだが、
彼はヤバい宗教をやっていると、地元の人に好かれてはいない。
カミナリが落ちたひとは、俺と同じ情報がインストールされるため、
結局同じ世界観がわかるようになる。

そうすると、地元の人には、
その地元のヤバい宗教をやる人に、俺が洗脳された。としか映らないわけだ。
その話をするたびにすごくいやな氣分になっていた。

しかしながら、嫌な気分になるということは、
それに引っかかる概念があるということまで、最近勉強になっていたので、
自らを深堀りしてみた。

結果、

【今までの人生で、暗中模索で何度も死にかけ、
それでも尚、自分自身を知りたいがために、全身全靈で自分を生きている。】
ことにいらだちが会ったのだとわかった。

そんな自分に対してリスペクトを感じない、失礼を感じるから。

それが答えだとわかった時に、スッキリした。

ひとに対してのいらだちや不快感と言ったものは、
ひとをどうしようと変えようとしたところで、
そもそもその原因は自分にある。
そこの原因を突き詰めない限り、問題は死ぬまで繰り返す。
他者に問題があるように見えて、
実は自分に問題があるのだ。
そしてその不快感を感じる事象は、
概念として認識していないから起こっているため、
同時に自分が他者にその事象を行っている可能性が高い。
その違和感にいらだちや不快感を覚えているのだ。

つまり、簡潔に言うと、
自分がやられて嫌だと氣がついているということは、
自分は全く同じことを誰かにやっているということだ。

自分の場合、これから
他者に対してもっとリスペクトを感じよう
失礼か否かまでは、その価値観を持ち合わせないと幻想となり
その迷路に迷うことになるので、コアなリスペクトだけを重視。
氣がつく限りでいいので、自分の行動や言葉、意識を整えていきたい。

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