- なめられてはいけない
いかに自分の中での自分の格というものをあげられるかが、
この世界においてのキーともなる。
相手になめられてはいけないのである。
以前
「まことの口、心、行が道標を作ってくれる」ため、
この世界を自分の役目を成功に進めるために攻略するためには、
一番自分らしくなることが必要と書いたが、
これは格も同等に必要不可欠。
自分に対して嘘をつく、
後ろめたいことをするということは、
魔に繋がることでもあるが、
同時に自分が自分の格を下げていると認識できる事象でもある。
そうなるとどうなるのか、
自分より格が高いと思う人間の方より、
相対的にすんなり物事がいかなくなる。
実際の格のレベルが、この世に存在しているのか、
こればっかりはまだ自分でもわかっていないが、
対何かに関しては、
相対的に格は大きく関係してくるのは間違いない。
なめられるということは、
何かと競る必要が出てきた時に、
自分の力不足になる可能性が高くなる事。
自然を見てもそれは摂理として存在している。
野生動物が、もし相手になめられた時に、
窮地に陥りやすくなるからだ。
政治的にも周りの人間だったり、他のことだったりも、
格上に対して物事はスムースに行くように世の中できている。
格下でなめられたとたんに、うまくいかなくなる。
肉食動物が草食動物を襲う時に、
草食動物が格を落とし、
肉食動物に完全になめられた時に、
草食動物は肉食動物に喰われて終わる。
しかし、土壇場で草食動物が攻撃をしたり、
自分を大きく誇示し格を上げた時に、
肉食動物は逃げる。
これは肉食動物の格が、草食動物に劣った瞬間に起こる。
人間の世界でのいじめもそうなのかもしれない。
いじめっ子体質で暴力的なヤンキーだったやつが、
中学の頃に自分を掃除用具入れに押し込んできて、
ゲームを貸せと殴ってきたことがあった。
自分はそこまで前に出るタイプでもなく、
わりとおっとりしたオタク氣質にしか見られていなかったと思う。
それでも、掃除用具入れに押し込み、殴り、ゲームを貸せとは、
あまりにも横暴すぎる。
自分はその瞬間に、プッツンと来て、押し返し、睨み返し
それがひとに物を頼む態度じゃねーだろ。
と至極正当なことを言った。
彼はなんだよ。
といって去っていった。
正当性を主張したことで、彼が彼の間違いに氣がつくことで、
彼は自ら格を落としていたことに氣がついた。
そして、牙をむくと思っていなかったやつが、
いきなり顔色を変え牙を向き、正当なことを言ってきたため、
彼の中での俺の格は上がった。
自分の中でも、こいつ何いってんだ。ありえねーだろ。
とあの瞬間に完全に彼を格下に見た。
いじめはいじめられる方も惡い。という人もいるが、
この世界では決して、なめられてはいけない。
自然界で、自ら格を下げ続けることをした時に、
弱肉強食の世界では負けてしまう。
蜂が飛んでいて、危ない逃げたほうが良いかもしれない。
と思うのは、蜂をなめていないからだ。
みみずが鳥にも、動物にも、魚にも、
ありとあらゆる生き物の標的にもなってしまうのは、
何もしてこない相手。となめられているところも
あるからかも知れない。
犬が人間に飼われているのは、狩りの歴史があったのは勿論
相手がなんだろうが勇敢に吠えたり噛みつこうとしたり、
番犬として機能するためでもあると思う。
誇り高く、自らの格を保つために、なにかが来たら吠える。
その代わり、家の中で格下に見られたら、
対家主だろうがひどいことが起こるのも知られている。
- 意識が出来ること
意識は何でも出来る。
自分の格を高く保つ必要性があるため、その意識は使える。
”一線を引く” ことをすれば、
意識や魔とは一線で自分を守ることも出来る。
無闇矢鱈に攻撃を仕掛けてきたり、
格下に見てくるひとがいたとする。
そして相手が格上に見える場合、
どうしても飲まれそうになることもあるかもしれない。
本来自分らしく生きていれば、
自分の世界では自分の格はかなり高い位置に保てるが、
いざという時もある。
そんな時は意識の中で一線を引けば、自分の聖域が作られる。
この世は意乗りの世界で、自分の意乗りが出来る場所を確保すれば、
自分の世界が作れる。
目の前の一線を引きたい対象と自分の間に、
こころの中で意識で線を引けばいい。
その代わり、相手にもそれは伝わる可能性がある。
科学的に見えない世界とはいえ、ひとは鏡。
五感以外の部分で感じ取れる可能性もあり、
それが故、何かが起きる可能性がないとも言い切れない。
まだそこまではわからないが、
相手に嫌な氣分を与える可能性が高い。
信頼をそこないたくない相手には、
あまりやらないほうが良いかもしれない。
それでも一線を越えてこようとするひとももちろんいるので、
あくまで自己責任であり、
おまじないの一種として捉えてもらえればと思う。
神事や宗教など、様々なところで、
おまじないが実際に働いているところをみたり、
すべてが自分の視点からの意識で世界が構成されていることからも、
一線を引くということは十分機能するように感じる。
なんせ、「一線を引く」という言葉と、
「一線を超える」ということばがあるくらいだ。
世の中、心持ちが大半を占める。
追記8/2
このトピックは自然で見えるし、間違いはないけど、降ってきた時にちょっとした違和感はあった。
いざというときに、
対何か、対誰か
と競る必要があるときに適応される法則だという意識を持った方がいいと氣がつきました。
常に誰かと競ることを意識しては自分がとらわれてしまいます。
それでも競る必要が出てきたときに、いざ頭に入っていると使えるトピックです。
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