- 真実性
習っていることと、自分が考えていることの違いは一体なんだろう。
教育は、法則摂理の様な事実もあれば、歴史の様な憶測もある。
歴史なんかは習ったことが、
後になりいつのまにか変わってることなんてしょっちゅうだ。
海外とやりとりで多文化に触れる機会が増えるたびに、
今現在の教育の歪みさえ大きく感じるので、
自分が生きていない時代はおろか、
自分の感知出来ていないことは、
発信元にとっても自由に操作が可能だとも同時に感じる。
それが “正しさ” という、
他意識による “正義” が伝えてくれることが根本だとする。
事実であれ、”正しさ” の形自体は、
一面を判断して断言したところで真実性は見出しにくい。
- 視点
物事は紙を見ればわかる通り、
裏と表があり存在している。
側面だってある。
上の画像のように、物質世界の三次元では、
たった三視点でも違うものに見えてしまう。
赤い四角に捉えているひとにとっては、
青い丸と言っているひとは、正氣の沙汰ではない。
新たな観点を見つけたと、緑の三角を主張してきた人間がいたら、
赤い四角と、青い丸に対しての
議論を長々研究していたひとにとっては、
更に正氣の沙汰ではない。
それが電波のような見えない波動の世界であったり、
流動的な時間、視点を変えての意思主張、
様々な要素が絡むと、いくつもの点で判断しないことには、
真実はとても見えてこない。
自分が心地よいその幸せのカタチも、
見る人の視点によっては正氣の沙汰ではない。
- 誤った素直さ
更にその幸せは自分の肚から出てきたことでなく、
インプットされた幸せの形であるとしたら?
教育において、自分の意識をそこにおかず、
一面から物事を捉えたものを真実と是とし、
そのまま吸収すると言うことは、
他意識のインプットに引っ張られると言うことでもあり、
自ら発生する本質には至りづらい状態に陥る。
しかし現在の点数式の教育だと、
ただ受け手になり自己意識は必要とされないため、
その他意識からの主張をそのまま飲み込むことになる。
それは自己をさえ形成する。
自己意識を持たない “素直” な吸収は、
自己を他意識により形成されることとなる。
そのため多角的に、他意識に対して自ら考える習慣がなければ、
自己の中に真実性を見出せなくなってくる。
一度形成されてしまえば、更に修正は難しい。
やりたいことが見つからない。
という方々が最近いるが、
極論こういうところに繋がってくる。
教育において、相手に意識を預ける ”誤った素直さ” は、
知らずのうちに、自分で自分を騙してしまう状況を作ってしまう。
- 直感、ひらめき
自分の中の直感、ひらめきに従うということは、
自分にとってこの瞬間に、
それが真実であると感じることが出来る手段でもある。
その真実性を事実として他意識が納得出来るか否かはどうでもいい。
如何に自分が納得出来るか。それだけだ。
頭で考えることも、
そもそもの前提である土台が
他意識によって作られたものの場合が多い。
- 結論として
直感やひらめきは、何も考えずただ習うことよりも、
自己にとって真実性が高くなる。
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