2021/09/01 見えない世界について話すこと

メモ
  • 科学教、経済教

世の中は完全なる科学教であり経済教になっている。
宗教というのは、これが正しいという教え。

現在金がすべて動かせる世界で
金がすべてだと思い込まされている拝金主義、
科学で証明できないことはデタラメだという思想が教え込まれていて、
それで世界がどんどんと成り立っていっている。

本質的には宗教は悟りに向かっている。
しかし現在の宗教は基本、
後の人間によって構築され、
形骸化され権力者が力を使えるようになるツールにもなっていて、
そうなっている宗教は源流からも離れていきやすい。
多神教でアニミズム(地球/精霊崇拝)は、
はるか昔から伝わっている智慧の塊のような概念という違いがある。
古神道は教えではないので道徳であって宗教ではない。
アイヌ、アフリカ、ネイティブアメリカン、アボリジニー、
フィリピンやらその他様々。
これも地球/精霊信仰で、先人の知恵からの自然発生的なもの。
今広がっている宗教とは明らかに質も違う。
(仏教、キリスト教その他の宗教を含んだ今の神道は、
権力的、形骸化も強く意味合いが変わっている。)

その昨今の宗教にみられる個人的な見解の一つとして、
一つの方向に全員の考え方を合致させ
コンピューターでいうところのOSともなり、
本質からかけ離れた教え/宗教となってしまうものにも見える。
昨今の宗教のように、他の教えはだめだという排他的考え方は、
元々はアニミズムで成り立っていたであろう地球にとって、
独特な性質を持つ。

一つの方向に全員の考え方を合致させ、
権力者が力を使うツールで、
元々の意味からは離れ形骸化している、
他の考え方の排除も入っている。
そのような性質からも、
昨今の経済、科学は言い換えれば宗教であるといえる。

 

 

  • 洗脳

宗教がキモチワルイ、と教え込まれていると、
まるで自分が宗教の外にいるように感じてしまう、
そもそも洗脳というものはそういうやり方であって、
マジックの手口と同じだと感じる。
大胆な嘘ほど見抜けなくなるし、
自分は関係ない世界の話だと感じる。
でも堂々と目に見える目の前で、
その手口が行われる。

上記の通り、宗教源流は正しい悟りへの道なので、
そこに触れれば魂で正しい。と感じることができる。
嘘と本当が混ぜられてしまうと、
正しいか誤りかの二択で考えることをしてしまう場合、
魂でわかる本当に従っていくため、
それを取り巻く全てが正しいと感じてしまう。
金(エネルギー/氣)で交換をする仕組みが正しいので、
それにまつわるすべてが正しいと感じてしまう。
科学は物質世界構成のコードのため、方程式として正しい。
ただそれは現実に対しての後追いであるので、
科学に証明できないことのほうが多い。
でも科学自体は真実でもあるので、
科学が証明できるものすべてが正しい、
科学で証明できないものは誤り。と感じてしまう。

その手口、洗脳が行われると、
我で動く権力(惡)は進ませたい方向を善とし、
進ませたくない方向を惡と設定して、民に伝える。

そうすると、すべてが分かっている権力者にとって
都合よく生きやすい世も形成される。

これらの仕組みとして、
まことの善は惡に似ていて、
まことの惡は善に似てしまう。
惡の大将は光り輝いていて 、惡人はおとなしく見えるものとなる。
そのためよく見極めなければいけない。

そのため日々自然を見て勉強してる。

  • 見えない世界

上記の通り、
カテゴライズされた世界を作りだし、
そしてこれはだめだ、
と目を向けさせないところにこそ真の糸口があるということになる。

しかしそこに氣がついたところで、
それを人に伝えようとしたところで、敵扱い、
もしくはヤバイやつ扱いになる。
善であろうが、世間で言う惡に見える仕組みになる。
そこに氣がついたときに、必死になってしまうが、
惡はおとなしく、善が行動をして何やら企んでいる惡
のようになる。

 

  • 自分の棚卸し

そもそも一つの教え自体の型にはまる(カタマル)ことが嫌いな俺は、
右ならえの宗教は苦手で、ゴリゴリの現実主義者だった。
大学生の頃宗教の勧誘を受け、
そこの人々が素敵だったので、入るつもりはないが、
中に入ってみたことがある。
どうしても最後の最後の部分を、
人頼みにしている感覚に違和感があった。
自分の行動にもっと自信を持ちたいと昔から感じていたし、
そこを他に任せることが、どれだけ危険かも、
地元がゆえ見に染みてわかっていた。

それで、現実を追求した。
様々な国や、富裕層貧困層やの視点も取り入れた。
自分の国や、生活を深堀りした。
同時に自分であることや、音樂も追求した。
教育や、思想、農や医学、歴史、宗教も結果自分なりに追求した。

とことん追求したところで見えた世界が、
見えない世界こそが鍵である。ということだった。
そこを認識しない限り、
真の幸せはやってこないと言えるほどのことが隠されていた。
こんな大きなことから目を背けさせる仕組みだったのか。

むしろ認識さえ出来てしまえば、自分でこの世界を構築できる。
すぐにその瞬間から解放される(悟れる)のだが、
悟りを覚えるには、今までの自分が住んでいた世界を
概念を否定することになるので、それ相当の覚悟がいる。

 

 

 

  • 二元論の惡用

伝えたい立場として。
この情報をキャッチしているひとはいるし、
今は増えていると思う。

それでも見えない世界に答えがあると氣がつけど、
第三の目と言われる感覚がない人間は、
自分で物事を見定められないため、見える誰かにすがる事になりがち。

見えない世界をどうにかする。
この二元論を惡用する輩が多いがゆえ、
見えない世界の話がかなりセンシティブになってしまった。
権力が発生するので宗教になってしまう。

実際見えない世界を読み取る感覚が伴えば、
惡用している輩がどうなるかがわかるので、
惡事を行っているかわかるため、
付き合いから外れる対象もわかるようになる。
大切なのは自分が、その感覚を持ち合わせていると認識すること。
そのコアを他に任せてしまうから、
”宗教”にすがることになってしまい、
結果また洗脳されるループに入り痛い目にあってしまう。
そんな輩に付き合うと、
悟りへの道ははるか遠いものともなる。

簡単に言えば、この手の話は、
人によってはただの詐欺に映るし、
それを詐欺と分かってやっている人もいる。
詐欺の人に付き合うと、回り道をしていくことになる。

 

 

  • それを理解した上で

上記に書いた話を人に伝えるときには、
自分の行動や、言動を氣をつけて行く必要がある。
自分の目的、
多くの存在にとっての幸せの世の構築、に向け
頭は使いすぎてはいけないが、
頭も使う必要がある。
詐欺、惡、異端とまずは認識されると、
氣をつけて行動言動が必要とされると感じる。

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